全国教育系ワークショップフォーラム
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2004年
各プログラムのレポート

1日目 11月21日(日)
  11:30 受付開始/開場
 →13:30 開会/イントロダクション
 →15:00 松原高校による実践報告
 →16:00 同報告のふりかえり
    …… 夕食 ……
 →19:00 フリートーク
  21:00 参加ワーク登録
  

2日目 11月22日(月)
◎プログラム1(8:00-12:30)
 →世界/星川淳
 →未来/村上千里・桜井高志
 →ジェンダー/川喜田好恵
 →物語/橋本久仁彦
 →自然/西田真哉
 →デザイン/西村佳哲

◎プログラム2(14:00-18:00)
 →コラボレーション/野村誠
 →こころ/菅靖彦
 →学校教育/吉村和彦・檜本直之
 →キャパシティ/W.エルスワース+佐藤静代
 →過去/益田文和
→ワークショップ/中野民夫
    …… 夕食 ……
  19:30 3日目のオリエンテーション
 →20:10 2日目のふりかえりのオリエンテーション
  20:30 2日目のふりかえり

3日目 11月23日(月)
 →9:00-12:00 by オールキャスト(クエストグループ)
    …… 昼食 ……
  13:30 クロージング
 →14:30 閉会

 →子どもフォーラム(11/21-23)
 →青年の家ボランティアから寄せられた感想

















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クロージング(全体ふりかえり)

写真

13:30。各々が赤城での残りわずかな時間を、書籍コーナーで熱心に本を選んだり、名刺交換をしたり、静かにこの空間を感じたりと自由にすごした後、クロージングセッションのために講堂に集った。その表情には少し気だるさが感じられ、やや重たい空間となっていた。

まずは、中野民夫さんがマイクを持ち、クロージングセッションの進め方を説明したあと、集った人たちのシェアが始まった。その一部を紹介する。 「みんなが作っている空間が居心地が良かった」 「託児してもらえるこういう集いはステキ。スタッフのみなさんありがとうございました」 「野村さんに感謝しています。こういう場は、賢いことを言わないといけないのではないか、まともなことを言わなければいけないのではないかという気持ち悪さがあったのですが、野村さんのおかげで気持ちが晴れました。自分がやるときはおバカでやりたい」 「午前中の参加者だけのミーティングが一番よかった。そういう場ももう少し増やしてほしい」 「視点をちょっと変えてみたときに気づくものがある」

さらに、シェアリングは実行委員のあり方についての探求へと進んだ。以下、場面解説と私見も混じるが、敢えて2つの話題となったについて、極力起こったままを記述してみたい。

●「ふりかえり」の言葉をめぐって

最初に、状況説明をしておく。このセッションのプログラム名は、「全体ふりかえり」となっていた。しかし、前日に会場から「ふりかえり」という表現について違和感があるという意見が表明され、中野さんが「クロージングふりかえり(笑)」と白板に書いたことについて、やり取りがなされた。

どんな言葉がここで発せられたのか、記しておく。
「白板に書かれた『ふりかえり(笑)』 はひどいと思う。『(笑)』にはagreeしていない。『ふりかえり』というのは、あんなこと、こんなことがあったなぁ、という意味で使っているもの。『クロージングセッション』に変更するのはいいが、取り消し線と(笑)はないと思う」
「私は、(笑)はポジティブに捉えた」
「私は、(笑)を自嘲したのかと思った。企画者とゲスト、実行委員が透けて見えて、本当にワークショップというのは難しい思った。ワークもいいと言った人、よくないと言った人がいて、東北の人間は3日後に笑うのでこれからわかるのかな」
「その場に権力を持っている人が自覚している必要がある」
「中野さんにもいろんな顔がある。ファシリテーターの顔、実行委員の顔、個人の巣に戻って(笑)を書いたのでは」

これらの発言を受けて、中野さんは「おっちょこちょいをしてしまった」と居心地が悪そうに一言。これで話題を変えようとした中野さんの意図とは裏腹に、参加者・ゲスト・実行委員のシェアリングがさらに次のように続いた。
「それを司会者がやってもよいのだろうか」
「その場に影響力のある強い人が素になってくれるのは、無責任だとは思わないし気にならなかった」
「好きです」。この一言を最後に、話題は次へと移っていった。

●ルールと自由さ

前夜に、参加者・実行委員・ゲストが共有したいクエスト(疑問・質問)をボードに貼った。それらのクエストは、午前のプログラムのテーマとなったが、一部のクエストについて、西村さんと中野さんが少し分かりにくいのでもう少し明確にするように依頼をした後、ボードから外したことについて起こったシェアである。

「貼ったものをはずされたのは辛かった」
「伝わらないと思ったから貼りなおさなかった」
「ルールに乗っかれないときの戸惑いをどこに持っていったらよいんだろう、という気持ち悪さを感じている」
「なぜこれをこう進めなければならないんだろう、という事はよくあるのに、自分も同じことをやっているんだろうなぁと思った」
「こういう場があるから、『違うんじゃないか』と言うことも言える。この機会を作ってくれた事に感謝する」
「どんな小さなことでも、違和感を感じたら、それを伝えるというのも選択の1つかなと思った」 「私には安心でよい場だった。普通の生活に戻ったら安心できない。日常生活に戻していくのにちょうどいい接点の中での話しであったように思えた」
「ワークショップをつくっているのは人だし、現実の中で苦しいかもしれないが、ここであった人のつながりの中で、いろんなことができたらいいなぁと思う」
「水滴一滴を落としたときの波紋。でも次の一点が落ちてないと消えてしまう。ハーモニーが広がっていけばよいと思った」
「課題は多いが、いいセッションだった」
「違和感、わだかまりがあってもいい。力づけがいつもここにある。ここからそれぞれの人が渦になって全国に広がったらよいと思った」 シェアリングはまだまだ続くが、最後に中野さんの字余りの一句が披露され、セッションは締めくくられた。
「間違えても 人間くささとみてくれて ほっとしたよな 恥ずかしよな。」

●個人的な感想

このクロージングセッションを通して、ワークショップという枠組みで切り取ることで見えるさまざまな観点があったように思う。

ひとつは、「言葉」のもつ危うさと、「言葉」がなければ理解できない現実があるということ。ファシリテーターの「あり方」の探求は永遠であるということ。

そして、参加者もファシリテーターも影響しあって場が創作されるということ。参加者全員が自分を持ち出し、確かにある小さな違和感をしっかりと掴まえて表現することで、無難な空間に「ゆらぎ」が起こり、その「ゆらぎ」が「触発」を起こす。日本でありがちな、「それらしい答え」や「納得感」に安易に落とすことで、なんとなく気持ちが良いが日常生活に生かせない教育ではなく、「納得感」や「すっきり感」はなく居心地は悪いが、エネルギーがあふれ出て行動に起こせる体験をする、これがまさにワークショップの醍醐味であり、今回多くの人が体験しているのではないだろうか。

そして、この体験が、日常生活とは少し違う、実行委員によって意図的に創作された「安全・安心な場」があり、「学び」を意図して集った人がいたからこそ味わうことができたことに気づいているだろう。実行委員と集った全ての人に改めて感謝をささげたい。

(レポート:内村直美)

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